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夏越の大祓2

今日は松陰神社に行ってきました。松陰神社も夏越の大祓え。茅の輪があったのでくぐって、松陰神社でも人型を納めました。

昨日も近くの神社でやったのに、別のところでもやっていいの?当然OKです。日本の神様はそんな小さな存在ではないです。いろいろな神社に行っていろいろな神様とのご縁を頂けばいいのです。一神教ではなく多神教、八百万の神様がいらっしゃるのですから。

世田谷区の松陰神社には毎月1回通っています。とても清浄な空間で、良く掃き清められて美しい場所です。

どうして毎月通うのか、それは掲示している松陰先生の言葉をチェックするためです。松陰先生の本はたくさん出ているので、わざわざこの掲示を見に行く必要もないのですが、なんとなく、それを言い訳にして通いたいのです。

吉田松陰先生は、幕末という時代にあって、志を持って日本の未来を見つめていた人物です。萩の片隅に開いた小さな私塾「松下村塾」からは、後に明治維新の中心を担う多くの人物が育ちました。高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など、彼の教えを受けた若者たちが、志を受け継ぎ、やがて時代を動かしていきます。

松陰先生自身は、わずか30歳で刑死という短い生涯を終えます。しかしその遺志は、弟子たちの中にしっかりと生きていました。彼らは命をかけて近代日本を築き上げ、結果として、日本はアジアの中で唯一、列強の植民地支配を免れた独立国となることができたのです。

これは、世界史的に見ても稀有な出来事です。

有色人種の国が、西洋列強の前に独立を守り、近代国家として歩み出すことができた背景には、間違いなく、松陰先生のような思想家・教育者の存在がありました。

松陰先生は行動も思想もぶっ飛んでます。頭のねじが一つ外れています。

でもそれはすべてどうすれば日本が良くなるのかという一点でぶっとんでいて、すがすがしいほど全く自分のことを考えていないのです。考えていなさすぎなのです。

その代表的な出来事が、あの「黒船密航未遂事件」です。
ペリーの黒船が浦賀にやって来たとき、松陰先生は何としてでもアメリカに渡って世界を見たいと、小舟で黒船に向かって漕ぎ出しました。命がけの行動です。日本の未来のために海外で学ぼうとしたのです。

もちろん、密航など許されるはずもなく、先生は捕らえられます。普通なら死罪になってもおかしくないことでした。

ペリーは松陰先生の行動に感銘を受け、「命を顧みず国のために動く若者がこの国にいる。日本は将来有望だ」といった趣旨の言葉を残したとも言われています。そして幕府に対しては、寛大な処分を望んだとも伝えられています。

実際には、先生はすぐに処刑されることはなく、長州へ送られ、幽閉という形になりました。
ペリーの働きかけが本当にあったのか、記録としてははっきりしませんが、そう語り継がれるだけの何かが、松陰先生の行動にはあったのだと思います。

この神社も、そんな松陰先生を慕う弟子たちが、維新後にその遺骨を探し出し、この地に改めて埋葬し、きちんとお祀りしたところから始まっています。単なる「偉人の神社」ではなく、想いを受け継いだ人たちの物語が、今も静かに続いている場所なのです。


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