神道と仏教はなぜ分かれたのか? 日本の宗教文化の歩み
前回は、神道と仏教が長い間「一緒に信仰されていた」ことを見てきました。
神様と仏様は、似ているからきっと同じだよね、という柔軟な考え方が、日本の宗教文化の土台にありました。
けれども、現在の神社とお寺は明確に分かれています。
なぜ、かつては一体だった神と仏が分離されたのでしょうか?
その答えは、明治時代の政治と国家のあり方にあります。
明治政府の方針:「神道は宗教ではない」
1868年、明治維新によって日本は近代国家として生まれ変わろうとしていました。
その中で政府は、「国民統合の精神的な柱」が必要だと考えます。
そこで選ばれたのが、天皇を中心とした神道でした。
しかしここで重要なのは、神道を“宗教”としてではなく、国家の道徳や伝統的儀礼として扱おうとした点です。
この方針に基づき、政府は仏教と神道を切り離す政策を実行しました。
神仏分離と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
明治政府は1868年、「神仏分離令」を出し、神社から仏教要素を排除することを命じます。
これによって、全国で次のようなことが起こりました。
- 神社に併設されていたお寺(神宮寺)が廃止される
- 仏像や仏具が破壊される
- 僧侶が追放される
こうした過激な動きが一気に広まり、これがいわゆる廃仏毀釈です。
それまで何百年にもわたって共存していた神と仏が、国家の政策によって無理やり分けられたのです。
国家神道の誕生と「宗教でない宗教」
その後、政府は神社を統一的に管理する制度を整え、**国家神道(こっかしんとう)**を作り上げていきます。
この国家神道においては、
- 神社は「宗教施設」ではなく「国民道徳の場」とされ、
- 学校教育や公式儀式を通じて、神道が「公的文化」として広められました。
つまり、「神道には宗教的な信仰があるけれど、それは宗教ではない」と位置づけられたのです。
これは、宗教性を“抜いた”というより、宗教であることを制度的に否定したといった方が正確でしょう。
ちなみにこのとき、ほとんどの神社は国の方針に従い、宗教性を失う道を選びました。
しかし中には、「そんな形式だけの神社をやるなんて、迎合できない」として、国家の管理を受けず、独自の信仰を守ることを選んだ神社も少数ながら存在します。
私の近所にもそうした神社があり、実はとても多くの人々の信仰を集めていて、強い魅力を放っています。
いったん宗教性を薄めてしまった神社が、今から信仰を回復するのは簡単ではないかもしれません。
けれど、あえて宗教的な側面を見直し、深めていくことこそが、衰退しつつある神社を再生させる道ではないかと感じています。
戦後の神道:国家神道の解体と民間信仰へ
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍)は国家神道の解体を命じる「神道指令」を出しました。
これにより、神社は国家の統制から外れ、「宗教法人としての神社」として再出発することになります。
ただし、戦前から神社はすでに人々の生活の中に深く根づいていました。
そのため、多くの人々は戦後も自然に神社に足を運び続け、信仰というより文化や慣習としての神社参拝が続いていきます。
現代の神社参拝:「信仰」というより「習慣」
現代の日本では、多くの人が「自分は無宗教です」と言いつつも、初詣・お宮参り・七五三・厄払いなどで神社を訪れています。
それは、「神様を信じているから」というよりも、
「お礼を言いたい」「願いごとをしたい」「心を落ち着けたい」といった日常感覚の中にある行為なのです。
このように、日本の神社文化は、
信仰と習慣のあいだをゆるやかに漂いながら、今も人々の生活と心の中に息づいています。
まとめ
- 日本では長い間、神道と仏教が融合して信仰されてきた(神仏習合)
- 明治政府は国家統合の手段として、神道を“宗教ではない”ものと位置づけた
- その結果、神仏分離と廃仏毀釈が進み、神道と仏教は強制的に分けられた
- 国家神道は戦後に解体され、神社は「宗教法人」として再出発した
- 現代の神社参拝は、「信仰」というより「暮らしの一部」として続いている
- 失われた宗教性を取り戻すことが、神社再生の鍵になるかもしれない
